ふるさと舞鶴再発見への取り組み 「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」 〜過去・現在・そして未来を築く心〜 この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。
● 吉田のしだれ桜(よしだのしだれざくら)
公卿の中院通勝は天正10年から慶長4年(田辺篭城戦前年)の19年間、吉田湾に浮かぶ年取島に、左遷させられました。細川幽斎が親交のあった通勝を慰めるために、この地に桜の苗木を送ったといわれています。
■現在
現在瑠璃寺にある「吉田のしだれ桜」は、舞鶴市の天然記念物に指定されています。又この桜は、幽斎の生まれた吉田山の桜を京から移したのではないかとも言われています。樹齢300年といわれる古木と樹齢80年の二対の若木の桜で、観桜シーズンには桜が咲き乱れます。観桜シーズンにはライトアップされ、花見の名所となっています。
●田辺城篭城戦(たなべじょうろうじょうせん)
1600年、西軍は福知山城主・小野木重次や前田茂勝らに命じて15000の軍で田辺城を攻めた。細川忠興率いる本軍は関ヶ原に向かっており、松井康之率いる丹後水軍は杵築に居た。留守を守る細川幽斎はわずか500人で篭城、幽斎を慕う舞鶴の民衆の協力と、敵方や朝廷にまで聞こえた幽斎の名声の影響(西軍の中にも幽斎の弟子が居て手心を加えた)もあって、15000対500の篭城戦は2ヶ月持ち堪えた。 文化人として「古今伝授」というとても重要な文化の継承者であり、朝廷とも親しい幽斎を死なせてはいけないと思われた後陽成天皇は東軍西軍に使者を出し、勅使講和を命じられ、幽斎はこれに従い、田辺城を開城したのです。 しかし結果、小野木ら率いる15000の兵は関ヶ原に間に合わず、西軍は敗戦。小野木重次は細川忠興に福知山城を攻め落とされてしまいました。
■ 現在
500人で15000人を相手に2ヶ月持ちこたえ、最終的に勝ったことは凄いことです。しかもそんな殺伐とした中で「古今伝授」という文化的な出来事も行われています。舞鶴でそんな凄い歴史が存在したことを誇るべきです。 そして忘れてはならないのは、たった500人でそれを実現した背景には、長年培ってきた細川幽斎のまちづくりがあり、民衆の協力を得ずしてなし得なかったことです。 その人達の心をこそ歴史的資産とすべきではないでしょうか。
●小野木 重勝(おのぎ しげかつ) 永禄6年(1563年)〜慶長5年11月18日(1600年12月23日)
安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣で、丹波福知山城主です。 豊臣秀吉の家来として活躍し、1595年に福知山4万石の城主になりました。 関ヶ原の戦いでは、石田三成に味方し、但馬や丹後の15000人の兵を率いて細川幽斎が守る田辺城を包囲しました。世に言う田辺城篭城戦です。 結局最後は開城させることが出来ましたが、関ヶ原本戦で西軍が負けてしまった為、福知山城に撤退しました。 そして関ヶ原から帰ってきた細川忠興に逆に攻撃されて開場し、井伊直政や前田茂勝を通じて徳川家康に助命を請いましたが許されずに切腹させられてしまいました。
●前田 茂勝(まえだ しげかつ) 1582年(天正10年)〜1621年(元和7年)
江戸時代前期の大名。丹波亀山藩主のち丹波国八上藩主。豊臣氏の五奉行であった前田玄以の次男。キリシタンでもありコンスタンチノという洗礼名を持っています。 1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の細川幽斎が守る丹後国田辺城を攻め、開城の使者も務めました。茂勝自身、幽斎を尊敬していたので、攻めにくかったようです。 西軍は敗れましたが、父が持っていた朝廷とのパイプなどもあって、所領を安堵されました。 父の死後家督を継ぎましたが、キリシタンとして熱心な信仰を行なっていたために幕府に危険視され、また茂勝自身も放蕩にふけって家臣に乱暴を働いたりしたため、遂に幕府から改易を申し渡され、家督は弟が継ぎました。改易後はキリシタンとして、真面目な生活を送ったと言われています。 |
2011年度
社団法人舞鶴青年会議所
2006年において
社団法人 舞鶴青年会議所
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