ふるさと舞鶴再発見への取り組み 「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」 〜過去・現在・そして未来を築く心〜 この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。
●西国三十三箇所、松尾寺(さいごくさんじゅうさんかしょ、まつのおでら)
中国から渡来した威光上人が青葉山中の松の大木の下で修行中に馬頭観音像を感得し、慶雲5年(708年)にこの松の木の下に草庵を造り、観音像を安置したのが松尾寺の創始とされています。 この霊験が都に伝わり、8世紀初頭に元明天皇(707〜715年)は藤原武智麻呂に命じ、本堂を建立させ、馬頭観音を刻ませたという。 一方、10世紀末に海難に遭った漁師が馬頭観音の化身といわれた流木にすがって救われ、この木で馬頭観音を刻んだという説もあります。 元永2年(1119年)には美福門院と共に保元の乱の引き金を引いた鳥羽天皇が銀杏を手植えしたと伝えられています。 以来、信仰を集め大きな寺になりましたが、織田信長の兵火により全焼、その後、復興し現在の寺観になったのは享保15年(1730年)といいます。
■現状
西国三十三箇所の第29番札所として1300年経った今も親しまれています。 鳥羽天皇が手植えしたとされる銀杏の木は舞鶴市の文化財に指定。馬頭観音像は通常拝観は出来ませんが、2008年に松尾寺の1300周年ということで1年間公開されました。
御詠歌:そのかみは幾世(いくよ)経ぬらん便りをば千歳もここに松の尾の寺 ●金剛院と奉行杉(こんごういんとぶぎょうすぎ)
真言宗東寺派の寺院。山号は鹿原山、寺号は慈恩寺。本尊は波切不動明王。寺伝では、天長6年(829年)、高岳親王(たかおかしんのう)が創建したといいます。高岳親王は平城天皇第3皇子で、嵯峨天皇の皇太子となりましたが、政変で廃されました。親王は後に空海の弟子となり、真如法親王とも呼ばれています。 平安末期、美福門院の命で金剛院の造営奉行を命じられた平忠盛(清盛の父)が杉の木を植えたとされています。金剛院を含む地域一円は、平安時代後期には「志楽庄」と呼ばれた地域で、平清盛が支配したこともある地域でした。
■現状
平忠盛が植えたとされる「奉行杉」は高さ25メートルもの巨大な杉になっています。室町時代に再建された三重塔も健在。また、三島由紀夫の小説「金閣寺」の舞台になっています。 秋には、江戸時代に細川幽斎(藤孝)が造った鶴亀の庭と植樹された楓がとても美しく、多くの参拝があります。
●平 忠盛(たいらのただもり) 永長元年(1096年)〜仁平3年1月15日(1153年2月10日)
平安時代末期の武士で清盛の父。美福門院の命で金剛院に三重塔を建て、阿弥陀如来を安置しました。その際、忠盛自ら手植えしたとされる杉が今も金剛院に残る「奉行杉」だそうです。
●平 清盛(たいらのきよもり) 元永元年(1118年)〜治承5年閏2月4日(1181年3月20日) 平安末期の武士で太政大臣にまで上り詰めて、「平家にあらざれば人にあらず」と言われた有名な人物です。丹後に領地を持っていたため、源平合戦が終わった時は負けた平家の兵が多く丹後に逃げてきました。 平家滅亡後、丹後国は平家から朝廷に没収された「平家没官領(へいけもっかんりょう)」となりました。
●島津 忠氏(しまづ ただうじ) 1279年?〜観応3年(1352年)7月3日
南北朝時代の武士。元寇で蒙古と戦った薩摩等を支配した島津忠宗の子の一人。 足利尊氏に従って転戦の末、1345年から1352年に亡くなるまでの間、田辺郷地頭として今の舞鶴西地区の荘園を支配しました。 1348年(貞和4年)に今の桂林寺の前身の薬師寺と、その境内にある八幡宮を参詣しています。足利幕府が尊氏と弟直義の兄弟の争いで割れると、忠氏は直義派として、尊氏派の島津宗家(本家)の貞久と争います。直義(その死後養子の直冬)派の中で、忠氏は幕府門注所(ばくふもんちゅうじょ)という大切な役割を任されたようです。田辺庄の島津氏は忠氏の死後、尊氏方の攻撃で田邊城(当時の場所は不明)は降参し、伊根に逃れていきます。 一方、決別した島津宗家は薩摩に根を張り続け、後々まで歴史の表舞台で活躍していきます。
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2011年度
社団法人舞鶴青年会議所
2006年において
社団法人 舞鶴青年会議所
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