トップページへ戻ります。社団法人舞鶴青年会議所理事長 松本 泰 がこのホームページを閲覧いただく皆様に御挨拶申し上げます。青年会議所の説明と特徴、その活動内容についてご説明いたします。社団法人舞鶴青年会議所が日々行っている活動をご紹介致します。社団法人舞鶴青年会議所は明るいゆたかな社会を目指し、地域に対して様々な取り組みを行っている団体です。 このページでは大好きなまち 舞鶴への取り組みについてご紹介します。 社団法人舞鶴青年会議所が舞鶴市PTA連絡協議会様と共に毎年開催します市長旗チビッコソフトボール大会について掲載しております。お問い合わせはこちらから

ふるさと舞鶴再発見への取り組み

「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」

〜過去・現在・そして未来を築く心〜

  この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。

 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。

 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。

 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。

 

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■ふるさと舞鶴・歴史スポット特集 12月(最終回)


●引揚記念館(ひきあげきねんかん) 引揚桟橋

 

 終戦。第二次世界大戦が終わった時点で、海外の様々な場所に残された日本人の数は、軍人・軍属が約320万人、日本人が約300万人以上といわれていました。この人達が祖国に帰る事が全国民の願いであり、政府も当面の国家的な緊急の課題としてこの大事業に取り組みました。
 まず昭和20年9月28日、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司を引揚湾に指定して業務を開始しました。
 このように膨大な数の日本人が海外から一斉に日本の内地へ引き揚げるとういうことは、まさに史上類を見ないほどの民族の大移動でした。
引揚資料 昭和20年から33年9月の13年間の海外引き揚げは、日本国内はもちろん全世界の注目を集め、数多くの新聞、放送関係の記者、カメラマンの取材によって報道されました。
 特に舞鶴はこの期間に66万人を越える引揚者を受け入れたのです。
 更に昭和25年に函館・佐世保両引揚援護局が廃止された後は、国内唯一の引揚湾として最後まで重要な役割を果たしたのでした。

 

 

 

 

●現在

 

 「引揚げ」は、暗い戦争の生んだ歴史的資産ととらわれがちですが、終戦後の希望の象徴であり、舞鶴はまさに「希望の港」であったのです。
 その時代に舞鶴の港と関わった人々の喜怒哀楽が、この記念館には詰まっているのです。


●ふるさと舞鶴(まいづる) 海上自衛隊

 

 豊かな海と山に恵まれたふるさと舞鶴は、歴史の中で様々な変貌を遂げて、今に至ります。
 時代を越えて舞鶴の海の人々は太古の昔より果敢に舟を漕ぎ出してきました。
 山においては人々が必死で生き抜くために築いた山城が大量に残されました。
 そして時代は移り変わり、西舞鶴は田辺城を取り巻く城下町を町並みに残し、現在まで続いています。東舞鶴は軍港として国家の投資を受けた建造物や整地された土地を有効活用し、公共施設や海上自衛隊や企業の誘致に貢献してきました。

●現在

 

 舞鶴の辿って来た歴史は、今から見ると決して平穏なものではありません。
 しかしそれぞれの歴史の変遷の中でそれぞれのまちづくりがあり、文化があり、関わった人々の心があります。
 未来を見据えてそれらを掘り起こすことにより、きっとそこから舞鶴らしさや魅力が心の中で芽生えるだろうと思います。

わがまち舞鶴みなとまち舞鶴

 

 

 

 

■ふるさと舞鶴・人物特集 12月

●西郷 従道(さいごう じゅうどう)

天保14年5月4日(1843年6月1日)〜 明治35年(1902年7月18日)

 

 薩摩出身の政治家で、かの有名な西郷隆盛の弟。幕末維新を尊皇攘夷の為に奔走し、明治政府に入りました。
 兄の隆盛が野に下って、西南戦争で亡くなった後も明治政府に留まって、兄に代わって薩摩の派閥の重鎮になり、伊藤博文内閣で、海軍大臣になります。
 1888年に伊藤博文と一緒に舞鶴港を視察し、1889年に舞鶴鎮守府の設置が正式決定することになるのです。


●東郷 平八郎(とうごう へいはちろう)

弘化4年12月22日(1848年1月27日)〜昭和9年(1934年)5月30日


東郷平八郎 元帥海軍大将として有名ですが、元は薩摩藩士でした。幕末は薩摩藩士として各地で戦っています。明治時代になると、西郷隆盛に見込まれてイギリスのポーツマスに官費留学しました。
 おしゃべりな性格だったようですが、留学先でからかわれるなどの苦労をして無口になったと言います。この時学んだ「国際法」が後々役に立ったようです。
 日清戦争で戦った後、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府の初代司令長官に就任しました。これを左遷だったとよく言われますが、いつロシアと戦争になるかわからない常態だった当時、舞鶴の司令官は重要なポストだったと言えるでしょう。

 明治36年(1903年)12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任。
 明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦三笠に乗り込み、海軍の作戦全般を指揮することになります。
 明治38年(1905年)5月27日、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊を迎撃しました。
 この時、名参謀の秋山真之が、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し 」と、大本営に一報を打電し、また艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞しました。
 そして東郷は丁字戦法「トウゴウ・ターン」を使って海戦に勝利を納めました。
 この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたトルコにおいても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は国民的英雄となりました。その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあったのです。

 東郷はイギリスで食べたビーフシチューを日本でも作らせようとしました。それで生まれたのが「肉じゃが」だと言われています。

●過去のふるさと舞鶴再発見

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