ふるさと舞鶴再発見への取り組み 「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」 〜過去・現在・そして未来を築く心〜 この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。
●丸木舟(まるきぶね)
舞鶴の大波下で、遠洋航海出来る程の大きな縄文丸木舟が発掘されました。約5300年前の最古で最大級のものと評価されています。 太古の昔より、舞鶴の海と接する人々は、文明も情報も乏しい環境の中で勇気とチャレンジ精神を持って生活していたのです。
■現状
発掘された丸木舟が、同じ製法で再現されて、知恵蔵に展示されています。 遥か古代から危険もかえりみず、大海に漕ぎ出していた舞鶴人の持つチャレンジ魂は、日本海を挟んだ対岸交易に繋がっていくものだと思います。
●タンバ王国(たんばおうこく)
舞鶴の古代については色々な説がありますが、最近は、舞鶴を含む丹後・丹波・但馬一帯に巨大な王国があったと考えられています。「丹後王国」とか「丹国(にのくに)」とも呼ばれています。 ヤマト王朝に負けないくらいの立派な王国で、互いに助け合い、共存していたと考えられています。
■現状
丹後地方に古墳や遺跡がたくさん残されています。舞鶴が、ヤマト王朝に匹敵する立派な王国があった場所だと思うと、神秘的だし、何だか嬉しくないですか?
●天武天皇(てんむてんのう) 舒明天皇3年(631年)? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日)
『皇統譜』によると第40代に数えられる天皇(在位:天武天皇2年2月27日(673年3月20日) - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。 舒明天皇の第三皇子で母は宝皇女(皇極天皇)、天智天皇、間人皇女の同母弟。 即位前の名は大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ)といい、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむもので、当時では養育者より幼名をとるのは慣例でした。 また、凡の字が異なるのは諱となることを避けてのことといわれています。この事から幼少時に舞鶴(海人の住まう凡海郷(おおしあま))の地にて養育を受けたとされているようです。 壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破り、飛鳥浄御原宮で即位しました。ヤマト朝廷の基礎を作った人物といわれています。
天武天皇 九つの偉業 ★天皇号の創始 ★陰陽寮・占星台(天文台)の設置 ★「古事記」「日本書紀」の編纂勅命 ★践祚大嘗祭の制定 ★宮都の選定と設計 ★八色の姓の制定 ★飛鳥浄御原令の制定 ★三種の神器の制定 ★伊勢の遷宮の制定・開始
●美福門院(びふくもんいん) 藤原 得子(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日)
平安時代末期の鳥羽上皇の皇后。皇室の後継者争いを巻き起こし、保元の乱を招いたとても美しい女性。鹿原庄の金剛院に、平忠盛を奉行にして三重塔を建てさせ、阿弥陀如来を安置させました。
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2011年度
社団法人舞鶴青年会議所
2006年において
社団法人 舞鶴青年会議所
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