ふるさと舞鶴再発見への取り組み
「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」
〜過去・現在・そして未来を築く心〜
この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。
舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。
冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。
このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。
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■ふるさと舞鶴・歴史スポット特集 7月
●稲富流砲術(いなどめりゅうほうじゅつ)
一色家の家来で「稲富氏」という鉄砲の名人がいました。
一色家が滅んだ後は、細川家に仕えましたが、ガラシャ夫人が自害する時に逃げ出してしまったので、追い出されてしまいました。
しかし鉄砲の才能を見込んだ徳川家康に召し抱えられて、稲富流砲術は国友村で受け継がれていきます。
■現状
岡山にある岡山鉄砲隊が、稲富流と同じ流れをくむ鉄砲隊として残され、活動されています。
●安寿と厨子王(あんじゅとずしおう)
弓木城に立て篭もった一色軍残党が敗れると、義定の妻で幽斎の娘の伊也の方は細川家に連れ戻され、幼い娘と息子の姉弟は捕われました。弟は龍勝寺に、姉は瑞光寺に入れられたといわれています。さんせう太夫の家を逃れた安寿姫は、京へ上がろうとする途中、中山(加佐地区)から下東へ出る坂で、疲労と空腹に堪え切れず最後を遂げ、地元の人々に手厚く葬られたとされています。
■現在
捕えられた義定の幼い姉弟は安寿姫と厨子王丸のモデルになったという説があるが定かではありません。ちなみに「さんせう太夫」の資料はもっと昔の丹後の資料にあります。
伊予松山に一色義定の忘れ形見・一色重之の末裔と称する一色党というのが居て、大阪の陣などに参戦したという説が伊予松山にあります。これらの説と厨子王伝説を重ね合わせると興味深いものがありますね。
余談ですが、一色氏配下の石川氏から、大泥棒石川五右衛門が輩出されたという説もありますが、歴史的な観点から見ると夢物語に過ぎないかも知れませんが。
安寿姫の墓地とされる安寿姫塚(あんじゅひめづか)は、西舞鶴市街地の西側にある建部山のふもとにあります。近年はキャンドルイルミネーションなども行われています。
尾根の通路が至る所で堀切(ほりきり)に分断されている特殊な城跡です。山城としては比較的登りやすい状態で残っています。堀切が多い原因は謎で、何らかの理由で城の規模を縮小した為とも考えられています。
■ふるさと舞鶴・人物特集 7月
●細川 忠興(ほそかわ ただおき)
永禄6年11月13日(1563年11月28日)〜正保2年12月2日(1646年1月18日)
細川藤孝の長男。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。また、父と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖。
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた人物。京都で生まれ、父が信長に臣従した際、忠興は信長の嫡男・信忠に仕えました。大変な戦上手で、政治家としても優れており、織田信長に劣らぬほどの冷徹さと気性の激しさを持っていました。
15歳で紀州雑賀一揆攻めに加わり初陣を飾り、数々の武勲を立てて、信長直々の感状を受けました。天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後国守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼしました。
この年、信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(細川ガラシャ)と結婚し、この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となりました。以前、忠興が信長の小刀の柄に九曜が描かれているのを大変気に入っていたことを信長が覚えていたためと言われています。そして細川家は丹後を与えられます。
天正10年(1582年)6月、岳父・明智光秀が本能寺の変を起こし細川父子を味方に誘ったが、父子は誘いを拒否したうえ、玉子を丹後の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉しました。細川父子にまで見捨てられたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれています。忠興はこのとき、父から領国を譲られて丹後宮津城主となりました。
この後、天下統一を推し進める豊臣秀吉に仕えて各地で活躍します。
秀吉が死去すると、武功派大名として石田三成ら吏僚派と対立し、徳川家康に接近しました。他の武功派と一緒に三成襲撃に加わったりしています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、このとき、豊臣家に恩を受けているだけでなく、父と妻が京都に居ましたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われています。
この時妻のガラシャは伏見で西軍の人質になることを拒絶して自害し、父の幽斎は田辺城に篭城しました。
性格は織田信長のように気性が激しく、弟とも仲が悪く、父・幽斎と仲が悪い時期もあったようです。その反面、父と同じく教養人・文化人でもあったので、他の文化人や公卿との交流も盛んでした。正室のガラシャへの愛情が深く、それが行き過ぎて残虐な行為に及ぶこともありました。
関ヶ原の戦いの後は豊前小倉藩を与えられ、細川氏の治世は舞鶴から九州に遷っていきます。
●細川 ガラシャ(ほそかわ がらしゃ)
永禄6年(1563年)〜慶長5年7月17日(1600年8月25日)
明智光秀の三女で細川忠興の正室。越前国で生まれる。諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。子に、於長(おちょう:1579年生前野景定室)、忠隆(1580年生)、興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生稲葉一通室)などがいる。(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)
天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁いだ。珠は美女で忠興とは仲のよい夫婦でしたが、天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って、自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となりました。忠興は珠を愛していたために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達でした。
信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻しました。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていきました。
それまで、彼女は気位が高く怒りやすい性格でしたが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったといいます。
関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶し、その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせました(キリスト教では自殺は大罪であるため)。辞世の句として、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠みました。
余談ですが、細川家の末裔にあたる細川護煕氏が首相を辞任する際に、この歌を詠んだそうです。
●中院 通勝(なかのいん みちかつ)
弘治2年5月6日(1556年6月13日)〜慶長15年3月25日(1610年5月18日)
戦国時代から江戸時代前期にかけての公家で、和歌が得意でした。
1580年(天正8年)正親町天皇の怒りに触れて、丹後国舞鶴に流罪になり、この頃親しかった細川幽斎に学んで和歌・和学を極め、幽斎は通勝を慰める為にしだれ桜を植えたと言います。1599年(慶長4年)に赦されました。
関ヶ原の戦いの時は古今伝授の使者として田辺城を訪れています。
●過去のふるさと舞鶴再発見
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