ふるさと舞鶴再発見への取り組み 「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」 〜過去・現在・そして未来を築く心〜 この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。
●177以上の山城(やまじろ)
荘園の地頭として入った武士達の間の抗争はおきはじめると、軍事拠点や民衆の避難場所として山城が築かれました。 舞鶴は「山が多い」という地理と、鎌倉〜戦国時代まで「抗争が絶えなかった」歴史背景から、日本でもトップクラスの山城の数を誇り、177を越えています。 舞鶴は山に恵まれただけでなく、一色・武田・細川の抗争の舞台の中から、さらに各勢力の中で内紛が起きたための戦乱の地となった為、日本の中でも稀に見る数の山城の数を誇る事となる。「こっとい崎の戦い」という、武田家の国人同士の内紛に加佐の民衆が介入したという特異なケースの事件の資料も残されています。
■現在
近年、地域力再生の観点からも舞鶴の山城が注目されつつあり、舞鶴の歴史としては未知の領域が開拓されようとしています。山城は当時まさに「最後の砦」です。ここで合戦が起きるようであればほぼ最後なので、負けて資料が残りません。しかし起きなければ起きないで資料も、城主の名前すら残らない場合が多いので、資料としては残りにくいのです。
粟屋久慶(あわやきゅうけい)という人物が若狭牢人衆・加佐郡衆とともにこっとい崎で戦い、逸見(へんみ)駿河守などに敗れる
●田中城(たなかじょう)
舞鶴市田中に綺麗な状態で現存する山城です。吉野城が北東に隣接しており、一見仲が良い様に見えますが、互いに向かい合って相手側に堀切がある為、一触即発の状態であったことが想像できます。
■現在
堀切から考察した当時の状況を思い浮かべて、当時の人々の気持ちを思い浮かべながらそこに立つとまた面白いかもしれません。
●女布城(にょうじょう)
舞鶴市女布に現存する山城。山城はあくまで最後の砦であり、使われた場合はほぼ敗北で、使われずにいた場合は歴史に登場しないという難しさがあります。
■現在
数ある舞鶴の山城の中では、かなり保存状態が良い城です。
● 一色 義直(いっしき よしなお) 永享3年(1431年)〜没年不詳
室町時代の守護大名で一色義貫(よしつら)の嫡男。幼名は千徳丸で左京大夫とも呼ばれる。 父の義貫が将軍の命令で武田に殺されてしまい、分家の一色教親(のりちか)が家を継いでいたので、義貫の家臣たちは幕府に猛反発していました。忠義な彼らは義直に跡を継がせたい一心で、三河や若狭で兵を挙げました。有力な家臣だった延永(のぶなが)氏が京都北野天満宮に立て篭もる事件も起きました。 そして1451年に、教親が33歳の若さで亡くなってしまった為、義直が跡を継ぐ事ができました。丹後を含むたくさんの領地を与えられて、足利幕府においては、銀閣寺で有名な8代将軍・足利義政のお供をする相伴衆(しょうばんしゅう)として、とても信頼されました。舞鶴を含む丹後での一色政権としては最も栄えた時期で、産業も発展させたようです。 応仁の乱が起きて幕府が真っ二つに分かれると、山名宗全率いる西軍に味方し、各地で管領細川氏や親の仇である若狭の武田氏と争いました。将軍義政は東軍に味方していたので義直の官職は全部取り上げられました。 1474年に山名と細川が和睦して、義直も幕府に復帰しました。この時に義直は息子の義春に跡を継がせて引退します。しかし1484年に息子の義春はわずか18歳で亡くなってしまい再度義直が丹後守護になりました。 1486年、禁裏の意向により、義直の領地だった若狭の小浜が武田に与えられたことに抗議するために義直はこの丹後にやってきました。 昔は丹後に領地を持っていても、なかなか自ら訪れることはなかったのですが、義直の頃から任地に来る事が増えてきたようです。 1492年に伊賀次郎左衛門という丹後の国人が反乱を起こすと、義直は鎮圧するために息子の義秀と一緒に丹後に向かいました。1498年に息子義秀は国人に敗れて自害してしまいます。 義直がその後どうなったかは資料が残されていません。
● 一色 義有(いっしき よしあり) 生没年不詳
戦国時代の人物。一色氏当主。一色義遠の子。 1498年、自刃した先代の一色義秀の跡を継いで当主となった。しかし国内は守護代延永氏が台頭するなどして混乱を極めました。 1506年には管領細川政元の命を受けて丹後に侵攻した丹波守護細川澄之(すみゆき)、細川政賢(まさたか)、若狭守護の武田元信らと戦い、途中で政元暗殺という事件が起き、これこそ好機とこれを撃退、赤沢朝経らを討ち取りました。
●赤沢 朝経(あかざわ ともつね) ?〜永正4年(1507年)
戦国時代(室町時代後期)の武将。清和源氏(河内源氏)の流れを汲む信濃守護家小笠原氏の庶流。家督を譲った後は、入道宗益と称した。 小笠原流の弓法を室町幕府の管領・細川政元に教え伝え、8代将軍足利義政の弓道師範にもなりました。 その後、細川政元の重臣として畿内で活躍しました。政元に対して謀反を企み、捕えられた事がありましたが、その武勇を惜しまれて許されました。その後は政元に忠誠を尽くしてさらに細川氏の勢力拡大に貢献しました。 永正4年(1507年)、政元の命令を受けて一色義有を討伐すべくこの丹後にやってきました。その戦いの最中である6月23日に政元が家臣の薬師寺長忠らによって暗殺されたことを知ると、軍を京都に撤退させようとしましたが、一色義有や丹後の国人の反撃を受け、6月26日に自害に追い込まれてしまいました。 |
2011年度
社団法人舞鶴青年会議所
2006年において
社団法人 舞鶴青年会議所
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