トップページへ戻ります。社団法人舞鶴青年会議所理事長 松本 泰 がこのホームページを閲覧いただく皆様に御挨拶申し上げます。青年会議所の説明と特徴、その活動内容についてご説明いたします。社団法人舞鶴青年会議所が日々行っている活動をご紹介致します。社団法人舞鶴青年会議所は明るいゆたかな社会を目指し、地域に対して様々な取り組みを行っている団体です。 このページでは大好きなまち 舞鶴への取り組みについてご紹介します。 社団法人舞鶴青年会議所が舞鶴市PTA連絡協議会様と共に毎年開催します市長旗チビッコソフトボール大会について掲載しております。お問い合わせはこちらから

ふるさと舞鶴再発見への取り組み

「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」

〜過去・現在・そして未来を築く心〜

  この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。

 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。

 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。

 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。

 

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■ふるさと舞鶴・歴史スポット特集 8月

 

●田辺城築城(たなべじょうちくじょう)舞鶴市田辺城跡

 

  現在の舞鶴の地を含む丹後を手にした細川藤孝は、織田信長の近世的なまちづくりを舞鶴にも導入すべく、舞鶴初の「平城」を建設しました。 田辺城は、その姿が、鶴が舞う姿に似ていたため、「舞鶴城(ぶかくじょう)」という別名がつけられました。「舞鶴」という名前が生まれた瞬間です。

 

 

■現状

 

舞鶴市田辺城全景 石垣後が残り、城門が復元されています。築城を命じるのはお殿様ですが、実際に工事をするのはほとんどが民衆です。何も無いところに見たこともないような建造物を作る為に、整地し、堀を作り、石垣を積み上げた努力はどのようなものだったでしょうか。 また、ある意味「舞鶴」と名づけられた瞬間だということも興味深いですね。

 

 

●細川藤孝のまちづくり田辺城の城下町

 

 田辺城が完成すると、城下のまちづくりを始めました。 まずは回船で物流を行うための港町を作り、全国から商人や職人を呼び寄せる為に、お寺を建てました。 こうして人を集めたり近世的な町割りを行っていったのです。 また、文化の面でも、当時の都の芸能文化を誘致し、民衆の目に触れるところで行わせ、 吉田の桜や金剛院の庭の言い伝えとなるような雅(みやび)な室町文化を舞鶴に取り入れつつまちづくりを行いました。

 

■現状

 

田辺城の城下町 舞鶴西地区の町の構造の原点になりました。道や寺社もこの時代に整理されたものが多いのです。西舞鶴=城下町の基礎となった時代ですね。 また、吉田の桜や金剛院の銀杏は藤孝が植えさせたとされ、金剛院の庭も藤孝の作と伝えられます。

 

 

金剛院金剛院

瑞光寺

■ふるさと舞鶴・人物特集 8月

 

● 稲富祐直(いなどめ すけなお)

天文21年(1552年) 〜慶長16年2月6日(1611年3月20日)

 

 戦国時代から江戸時代初期の砲術家(鉄砲の名人)。稲富流砲術の開祖。号は一夢、理斎。別名に直家。稲富直秀の子で、稲富祐秀の孫。伊賀守。弟に稲富直重。弓木城主。

 祖父・祐秀から砲術を学んだため、砲術に優れ、それをさらに発展させて稲富流砲術を創始したと言われています。 一色氏にはじめは仕えていたが、一色氏が滅亡した後は、細川忠興に仕えた。

 1600年、関ヶ原の戦いが起こったときは、細川氏の大坂屋敷にいて、忠興の妻である細川ガラシャの警護をしていましたが、ガラシャが石田三成の人質作戦に巻き込まれて自殺すると、自身は砲術の弟子に助けられて屋敷から逃亡してしまいます。このため戦後、愛妻のガラシャを失った忠興から恨まれて殺されそうになりましたが、徳川家康にその砲術の腕と知識を惜しまれて助命されました。

 後に剃髪して一夢 理斎と号し、井伊直政や浅野幸長なども弟子にしました。しかし加藤清正からは、「売名家」として非難されています。 戦の際に具足を二枚重ねて着ていたため二領具足の異名を持っています。

 

●松井 康之(まつい やすゆき)

天文19年(1550年)〜 慶長17年1月22日(1612年2月23日)

 

松井康之 細川家に仕えた戦国武将。もともとは細川藤孝の同僚として足利家に仕えていましたが、若い頃に「どちらか偉くなった方の家来になる」と約束したそうです。丹後に来てからは、丹後水軍を率いて大活躍し、鳥取、朝鮮、杵築などに遠征しました。

 関ヶ原の戦いの時は、杵築に攻め込んできた大友軍を撃退し22000石の所領を貰いました。 松井家は代々細川家の筆頭家老となり、「長岡」という栄誉ある姓を名乗ることを許されました。 宮本武蔵と仲が良かった「長岡佐渡」は康之の息子です。

 

 

 

 

 

 

●沼田 清延(ぬまた きよのぶ)

 

 細川家の家臣。福井県の熊川宿のあたりを治めていた沼田光兼の息子で、細川藤孝の妻・麝香(じゃこう)とは兄弟にあたります。

 一色軍記などの一部伝承では、元は一色配下の中山城主で、細川家と内通して一色義道を殺めた「幸兵衛」という武将と同一人物とされるが、信憑性はありません。松井家同様に「長岡」姓を許されています。

 沼田家の元々の領地だった熊川は、陰陽師で有名な土御門家の領地の近くだったので、沼田家の中で陰陽道に通じた軍師がいたという説もあります。

●過去のふるさと舞鶴再発見

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