ふるさと舞鶴再発見への取り組み 「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」 〜過去・現在・そして未来を築く心〜 この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。
●応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の8代将軍・足利義政の時代になると、将軍の力も弱くなって、皆勝手に家族同士の権力争いを始めてしまいます。 その中の一つが、舞鶴を領地に持っていた一色氏です。 やがて幕府は2つの勢力に別れ、京都の街中や各領地で戦争を始めてしまいました。世に言う「応仁の乱」です。 これがきっかけで「戦国時代」と呼ばれる時代になっていきます。 ■現状
この時代に守護の一色氏と若狭守護の武田氏が丹後の地を巡って争ったり、一色氏が全盛期を迎えたりしますが、資料としては情報が乏しいため、具体的に産業がどのように発展したのかまだわからない状態です。 またこの頃から、舞鶴を支配していた一色氏と、管領家の細川氏や若狭守護の武田氏との因縁が深まっていきます。
●倉梯城(くらはしじょう)
別名・行永城(ゆきながじょう)。家来が主人から権力を奪う「下克上」は、舞鶴でも起きました。 守護大名の一色氏の家来で、代理で国を任されている「守護代」の延永氏は、戦国大名になりそうな勢いで力をつけました。 丹後水軍などを使って若狭の小浜に攻め込み、若狭の武田氏を追い詰めました。 しかし武田氏が足利幕府に救援を求めると、管領の細川氏や越前の朝倉氏などが援軍に現れて逆転し、延永氏の立て篭もる、舞鶴の「倉梯城」という山城を攻め落とされてしまいました。この戦いで2000人もの人が亡くなったそうです。 ■現状
落城の際に破壊されてしまったので何も残ってはいません。現在行永にある龍勝寺はこの城にあったと言われています。倉梯城は、その名の通り今の行永にあると思われていましたが、溝尻だという説もあります。 ●丹後水軍(たんごすいぐん)
戦国時代初期、丹後の守護代・延永春信が若狭の武田の領内に攻め込んだ時、小浜の港から丹後水軍が攻め込んでいます。 戦国末期、織田信長の越前一向一揆攻めには、丹後国守護一色氏の号令のもと、矢野、大嶋、桜井など各氏の水軍が参加しています。 細川氏が織田軍としてこの地方を攻めたときも、矢野、桜井の両氏が水軍の重要な武将であるため、 最初に交渉して味方に引きいれたといいます。 三島、西、水島、下志万など各氏も水軍であったと思われます。 また細川政権下においては、松井康之が丹後水軍を率いて各地に遠征して活躍しています。 舞鶴湾内の入江や島陰に、海部の伝統をついだ水軍の舟が停泊していたことでしょう。あちこちに、舟溜(だま)り、舟かくし、など水軍にかかわる土地名が残っています。 「水軍」と言っても、大半は丸木舟で遠洋航海に出ていた人々同様に、舞鶴の海に住まう人々であったと考えられます。ある時は漁、ある時は交易、ある時は水軍、海賊なんかもしていた可能性も無きにしも非ずですね。 ■現在
あまり現存する資料などはありませんが、今でも舞鶴の海辺の人々の中でその魂は受け継がれているかも知れません。 ■丹後水軍の活動 ・1527(大永7) 丹後の海賊が小浜を襲う ・1540〜 海賊の活動さかんになる ・1551(天文20) 武田氏が田辺の「代官ハマ」を成敗 子息左京進ら加佐の不知行の衆の反乱→たびたび合戦
●一色 義清(いっしき よしきよ) 生没年不詳
戦国時代の人物。五郎。左京大夫。一色氏当主。先代当主は一色義有と思われます。 丹後の守護を務めましたが、若狭の武田氏に攻められたり、守護代の延永氏の下克上(下の者が上の者の権力を凌ぐ)に遭い国内は混乱しました。 永正13年(1516年)から翌年にかけて一族の一色九郎という人物と争いました。義清は加悦城主の石川直経と、九郎は守護代延永春信と手を結び戦いを繰り広げましたが、加悦城を攻め落とされ一時没落したこともあったらしいです。 義清の動静は永正16年(1519年)まで判明しています。 一色義幸の父と推定されます。また、一説には土岐頼芸(ときよりよし)、次いで斎藤道三の側室となった深芳野(みよしの)の父ともいいます。ちなみに、深芳野の生んだ斎藤義龍は一色左京大夫を称しています。 ● 延永 春信(のぶなが はるのぶ) ?〜永正14年(1517年?)
延永氏は、戦国時代の丹後の守護代。「下克上」と言われた他の地同様に、守護代の延永氏が守護を凌ぐ勢力を身につけ、一色家の後継者問題に対して抗議活動を行ったりしています。春信は1501年、病気全快の感謝として宮津の智恩寺に多宝塔を寄進しています。 永正13年(1516年)には主君の一色氏の内紛で一色九郎という者を担ぎ上げ、守護の一色義清を没落させたようです。その5月頃には延永勢は若狭に侵入し、小浜の御所山まで攻め込みました。 若狭守護の武田元信はさっそく越前の朝倉孝景に救援を依頼する一方、幕府に運動した結果、武田への支援を命じる御内書が出されました。翌年、倉梯城で、若狭守護武田氏と一色家臣団との戦いがあり、籠城した延永春信は、武田・朝倉・朽木の連合軍に攻められ敗死。両軍の死者は2000人を越えたといいます。 彼が天橋立の知恩寺に寄進した多宝塔は今も重要文化財として遺されています。この多宝塔は雪舟の「天橋立図」に描かれており、この絵が1501年以降に完成された作品だという証明になっています。 戦国大名への転身に失敗し、延永氏は歴史から名を消しました。 ● 朝倉 宗滴(あさくら そうてき) 文明9年(1477年)〜弘治元年(1555年)9月8日
戦国時代の武将。越前の戦国大名朝倉氏の一族である。朝倉氏当主である朝倉貞景・朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の三代を一族の重鎮としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた名将である。 若い頃の名は教景(朝倉教景を参照)といいますが、出家名の宗滴のほうが有名です。 永正14年(1517年)、若狭守護武田氏の援軍として幕命で若狭・丹後に出陣。若狭の逸見(へんみ)氏と共に、丹後守護代延永氏の反乱を鎮圧、舞鶴の倉梯城を陥落させたといいます。 宗滴が語ったものを宗滴の家臣・萩原八郎右衛門尉宗俊がまとめた『朝倉宗滴話記』という資料が残っており、宗滴のいわゆる合戦マニュアル本として、現在でも重要な史料となっています。その中でも、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」は有名です。 |
2011年度
社団法人舞鶴青年会議所
2006年において
社団法人 舞鶴青年会議所
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