ふるさと舞鶴再発見への取り組み 「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」 〜過去・現在・そして未来を築く心〜 この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。 舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。 冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。 このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。
■ふるさと舞鶴・歴史スポット特集 10月 ●舞鶴の一揆(いっき)
一揆の代表で来た人は、決裂して暴動になる事を恐れて、お城の周りの人々にとても良いおもてなしを受けたようです。
●牧野親成(まきのちかしげ)のまちづくり 元京都所司代の牧野親茂は厳正な政策を行い、城下に色町を置かず、京極家の内紛で破壊された田辺城の城門の改築工事を行った。また、朝代神社、大川神社、円隆寺などの祭礼を大いに奨励しました。
■現在
●江戸時代の舞鶴の廻船業(かいせんぎょう)
細川氏の造らせた西地区の港町を中心に「北前舟」を使った各港町との交易が盛んで、江戸中期頃からは、日本海を西廻りに大阪へ北国の米を運ぶ航路が開け、大型船が就航しました。これを北前船(当時は日本海側を前とした)といいます。舞鶴もその航路にあたり、由良川河口の「神崎」をはじめ、東舞鶴の「市場」などにも、北前船主が現れます。さらに江戸時代後期ごろから、神崎、由良、竹屋を中心に廻船業が栄えました。
■現在
いまでも西地区には回船時代の風情漂う港町が残されています。舞鶴は丸木舟の古来より、海運の歴史を持つまちであるという観点からも、見逃せない歴史的資産のひとつです。
●近現代の対岸貿易(たいがんぼうえき) 田辺城下町の交易の中心として廻船問屋で栄えた竹屋町にかわり、明治になると汽船や船便が住吉入江や高野川河口から発着していました。明治20年に入り、シベリア鉄道が着工されると、日本海側の良港であった舞鶴は対岸貿易港として注目されました。 ■現在 日本海を舞台にした舞鶴の対岸貿易は現在に至るまで活発で、様々な国と交易をすることになります。経済的観点からも舞鶴の将来を担う一翼の要素といえるのです。
■ふるさと舞鶴・人物特集 10月 ●京極 高知(きょうごく たかとも) 元亀3年(1572年)〜元和8年8月12日(1622年9月17日)
安土桃山時代から江戸時代に活躍した戦国大名。丹後藩の祖。 関ヶ原の功により丹後一国および丹後守の称号を与えられ国持大名となる。京極高吉の子。母は浅井久政の女(京極マリア)。兄に高次がいる。正室は織田信澄の娘、継室は毛利秀頼(尾張守護斯波氏)の娘。嫡男は高広、三男に田辺藩主高三、養子に峯山藩主京極高通、娘婿に八条宮智仁親王、京極高通、六郷政勝。
●京極 高三(きょうごく たかみつ) 慶長12年(1607年)3月17日〜寛永13年9月13日(1636年10月11日)
丹後田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主。丹後国主・京極高知の三男として丹後田辺城で生まれました。
●京極 マリア(きょうごく まりあ)
戦国時代の女性。近江国の浅井長政の姉として小谷城で生まれました。 関ヶ原の戦いの後、次男の高知が領した丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に移り住み、高知の庇護の下、此御堂という建物を中心に布教活動を行いました。 |
2011年度
社団法人舞鶴青年会議所
2006年において
社団法人 舞鶴青年会議所
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