ふるさと舞鶴再発見への取り組み
「深」く掘り起こせ!ふるさと舞鶴の「心」
〜過去・現在・そして未来を築く心〜
この事業は、ふるさと舞鶴の歴史を掘り起こした中から、まず舞鶴JCメンバー自身が舞鶴らしさや魅力を再発見することを目的とし、2008年に行われた事業です。
舞鶴の歴史に関わっておられる行政や諸団体の方々と連携し、三回に渡る勉強会等で知識と理解を深め、冊子とデータ資料にまとめました。
冊子発刊と同時に開催したシンポジウムでは、調査・研究発表を行うと共に、外部協力者の方々を交えてパネルディスカッションを行い、舞鶴の歴史の中から、現在、そして未来に何を伝えるべきかを学びました。
このページでは調査研究の一部を紹介させていただいております。
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■ふるさと舞鶴・歴史スポット特集 11月
●鎮守府の誘致(ちんじゅふのゆうち)
明治21年(1888年)、伊藤博文と海軍大臣西郷従道が舞鶴港を視察、明治22年(1889年)には正式に「舞鶴鎮守府の設置」が決定し、その後多くの国家予算を海軍に投資されたことが今日の舞鶴の町の形成の基礎となっていきます。
数多く候補が有る中で舞鶴が選ばれた理由として、舞鶴出身で海軍で活躍した伊藤雋吉の存在が影響していると言われています。
■現在
軍港として投資を受けたことが東地区のまちを形成する上で重大な役割を担っていて、それが無ければ現在のまちとしての発展は望めませんでした。
そして一攫千金を夢見た多くの人々が舞鶴の東地区を中心に移住してきたのです。
●赤煉瓦倉庫群(あかれんがそうこぐん)
北吸地区に林立する赤レンガ倉庫群は、そもそもは旧日本海軍の軍需施設として使用されました。
明治33年臨時海軍建築部支部(舞鶴)の直営工事で建設に着手され、大正10年までに次々と建てられたものです。
明治37年に軍港引込線が開通し、現存する自衛隊所有の3棟を除くすべてが倉庫内まで線路を引き込み、昭和47年に中舞鶴線が廃線となるまで線路は残されていました。
■現在
現存する多くは倉庫として現役で活躍し、うち3棟は「赤れんが博物館」「市政記念館」「舞鶴知恵蔵」として活用されています。また当時の風情を遺す「赤煉瓦ロード」は、各種イベントで活用されています。
●神崎のホフマン窯(かんざきのほふまんがま)
西神崎の神崎コンクリート工場内に保存されていた、明治20年代以降、赤煉瓦生産に主役をなした連続焼成で、大量に煉瓦を作ることが可能なホフマン式輪窯。ホフマン式のもので現存するものは全国で4箇所のみ。ここで造られた煉瓦は船で舞鶴湾まで運ばれ海軍に納入されました。当時は最高で100人くらい職人がここで働いていたこともあるようです。
この登り窯は、もともとはホフマン式ではなく、一回焼く度に火を消さねばならないので、大正の末期にホフマン式輪窯に改良されたそうです。
昭和20年代になり、煉瓦の需要も減少し原土も底をつき、同33年頃煉瓦の製造は中止してしまいました。
■現在
小型煙突が半倒壊するなど老朽化が進んでいることから、平成19年11月に市民らが「神崎煉瓦ホフマン式輪窯の改修保存をすすめる会」を発足しました。
●近現代の畿内物流(河川から鉄道へ)
日露戦争の開戦により当時中舞鶴にあった舞鶴鎮守府の兵員や軍需物資の輸送をメインとし、明治37年に新舞鶴駅から軍港引込線として線路が開設されました。それまで河川ルートが主流だった機内の物流は、鉄道中心となりました。
大正8年に国鉄線として開業し舞鶴線の支線で新舞鶴駅と中舞鶴駅間を結ぶ通称中舞鶴線となり、新舞鶴駅と中舞鶴駅の間に東門(とうもん)駅が設けられました。新舞鶴駅・東門駅・中舞鶴駅の3駅が中舞鶴線にあり、北吸トンネルは新舞鶴駅と東門駅の間に位置しました。
■現在
新舞鶴駅を東舞鶴駅に、東門駅を北吸駅に改称され、1972年(昭和47年)に中舞鶴線は全面廃止。2002年(平成14年)に北吸トンネルが国の登録有形文化財に登録されました。そして交通は国道27号線が中心となった車道の時代となっています。
●舞鶴要塞と築城部隊(まいづるようさいとちくじょうぶたい)
近現代の舞鶴への軍事投資は海軍だけではありませんでした。日露の対戦に向けて陸軍も舞鶴の山々に砲台や防塁を作り始めたのです。舞鶴全体を軍事基地とするような計画でした。
明治30年3月、舞鶴軍港の着工と同時に陸軍も同年11月に舞鶴要塞砲兵大隊の開設と砲台、保塁の建設に着手し、同36年10月に全工事を完成させました。
舞鶴湾の東岸に葦谷、浦入各砲台と吉坂保塁、博奕岬電灯、下安久弾丸本庫を、湾の西側に金岬、槙山各砲台、建部山保塁、白杉弾丸本庫などを配置。これらの工事を行った人々を「築城部隊」と呼ぶそうです。この時建部山の山城跡は破壊されました。さらに昭和にかけて防塁・砲台の工事は続けられました。
舞鶴要塞砲兵大隊は、当初は倉谷の東山寺で事務を開始しましたが、明治31年(1898)11月に市内上安久(現日星高等学校)に移転し、明治から昭和にかけてこの地で活動しました。
■現在
戦後は、当時の正門や西門等、その部隊敷地の多くを日星高等学校が使用しています。築城部隊が築いた山の中の砲台後も今も歴史的遺産として遺されています。
■ふるさと舞鶴・人物特集 11月
●牧野 親成(まきの ちかしげ)
慶長12年(1607年)〜延宝5年(1677年)9月23日
江戸幕府旗本で関宿藩主の牧野信成の次男として生まれ、兄の牧野九右衛門が早くに亡くなったため、跡継ぎになりました。
2代将軍の徳川秀忠の小姓から、旗本として順調に出世し、1654年には2代目関宿藩の藩主になりました。
その後京都所司代という京都の行政を預かる大きな役割を与えられ、厳正な性格だった親成は、とても厳格な政治をしたようです。
1668年、田辺藩(舞鶴)の藩主として京極氏に代わってこの舞鶴の地にやってきした。
藩の人事は、元から居た人達を自分の連れてきた人材に入れ替えて、全て牧野家のカラーにしました。
京極氏の身内げんかで荒れ果ててしまった田辺城を改築し、藩政の基礎固めに専念しました。
まちづくりに関しては、京都所司代の頃のように厳正に行い、色町など風紀を乱すものは城下に置かなかったようです。
朝代神社のお祭りや、円隆寺へのお参りなどを奨励し、積極的に民衆と交流するお殿様でもあったようです。
1673年に、家督を前の領主の京極家の娘婿だった弟の牧野富成に譲って隠居し、剃髪して哲山と号しました。
●野田 笛浦(のだ てきほ)
寛政11年(1799)6月21日〜1859
江戸時代の朱子学の学者で、通称は希一とも言い、舞鶴で生まれて舞鶴で亡くなった偉人です。
13歳で江戸に出て昌平黌に入った。今で言えば東大に入ったようなものです。
中国語が得意で、駿河に清国(中国)の商船「得泰船」が漂着した時、筆談の通詩として活躍しました。
嘉永三年(1850)52才の時、田辺城主牧野節成侯の墾望により、 江戸より、帰国し藩の家老職につき61歳で亡くなりました。
「丹後田辺に過ぎたるものは、時の太鼓と野田希一」と唄われたといいます。
●伊藤 雋吉(いとう しゅんきち)
天保11年3月28日(1840年4月30日)〜大正10年(1921年)4月10日
鎮守府を舞鶴に誘致した立役者といわれる人物です。
江戸期の武士、明治・大正期の海軍軍人。海軍中将正二位勲一等功三級男爵。幼名を徳太。
丹後田辺藩士の子として手代町(現京都府舞鶴市宮津口)に生まれ、幼い頃から和漢書を読み解くことが出来、数学も得意な少年だったようです。
やがて藩の命により江戸へ出て、長州志士の大村益次郎の門下で蘭学・兵学・数学を学び、その大村の招きで海軍へ入りました。
海軍で活躍し、日清戦争における軍功により男爵を授けられました。
舞鶴出身で爵位を受けたのは最後の丹後田辺藩主牧野弼成(すけしげ)と彼の2人だけです。
彼が海軍の中で出世したことが、鎮守府うを選ぶ際、舞鶴が選定される要因になったといわれています。
詩文・書が得意で、艦名の文字いろは四十八文字などを残しました。
●牧野 弼成(まきの すけしげ)
1854年10月14日〜1924年6月23日
丹後田辺藩の第10代(最後)の藩主。第9代藩主・牧野誠成の長男として生まれる。明治2年(1869年)に父が死去したため、その後を継いで藩主となる。同年6月には版籍奉還により藩知事となった。このとき、紀伊田辺藩との混同を避けるために、田辺を舞鶴と改名し、この時初めて正式にこの地は「舞鶴」と名づけられたのです。後に子爵となりました。
●過去のふるさと舞鶴再発見
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